2014MFUマイスター≪技術遺産≫認証 受賞者紹介③

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眞弓隆治 (株式会社エミネントスラックス 相談役)

もの言わぬ ものがもの言う ものづくり

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「松浦職人」という言葉が、こぼれ出た。
ただ職人と呼び捨てるのではなく、わざわざ松浦と重ねるところに、国内屈指のスラックス工場を育ててきた彼らの自負が読み取れる。
ときおり顧客から名指しされるその工場は、福岡空港からバスと鉄道を乗り継いで4時間ほどもかかる、九州の最西端にあった。海が近く、空は青い。
当時の越前屋(現エミネント社)がこの地に居を移してから、すでに半世紀に近い歳月が流れている。眞弓さんは、工場立ち上げのために採用された1期生だった。以来、さまざまな業務を担当したのちに、社長、会長を歴任した。工場の歴史と、社会に出てからの自分の人生とが、そっくり重なり合う。
とにかくデスクにいない人らしい。
社長のときも会長のときも、暇さえあれば現場を歩いていた。耳で聴いて務まるほど、
モノづくりは甘くない。そのことが痛いほどわかっている。だから他の人にも、折ある
ごとに、自分のものは自分でつくれと、語りかけてもきた。
たとえば、作業をつづけていれば、端切れが積み上がっていく。合わせると一本になる。どうせ捨てるくらいなら、それで自分のものをつくってみなさい。そうして経験を積み重ねていくことで、やがてベストな型紙にたどりつけるだろう。失敗するのも勉強なのだと、彼は説いた。

修練と工夫を求める一方で、人を見る視点はやさしい。
技術を習得し、高度なレベルにもっていくには、5年くらいはかかる。なかには伸び悩む人もいる。しかし、ミシンを踏んでダメでも、それですべてがダメなわけじゃない。別のことをやらせたら、だれもかなわなくなっていることがある。人はかならず、どこかに活躍の場があると信じ、気長にそれを実行してきた。
いま、ここ松浦工場で働く人たちの勤続年数は、平均で24年を超えている。主要な各部署ごとに、要となるスペシャリストがいてくれる層の厚さは、希少だ。容易に人を見限らず、辛抱づよく、反復作業のなかでじっとその人の長所を見抜いていく眞弓さんの存在がなければ、かなえられなかったことだろう。

松浦市はもともと、炭鉱で栄えた町だった。
しかし昭和40年代の日本は、石炭から石油の時代へと急速に移行していた。住民の多くはどこかで炭鉱に関わっている。それが閉山となれば、松浦市の人口は一気に流出する。市は炭鉱の閉鎖を目前に、危機感を募らせていた。
一方で越前屋は、東大阪の花園にあった工場の人材確保がむずかしくなっていた。人はあたらしい産業へと流れ、大都市の近くで縫製工場を維持しつづけることが困難になっていたからだ。
そんな折りに、企業誘致が急務となっていた松浦市から、声がかかった。老朽化した木造の小学校を建て替えるため、旧校舎があった土地がそっくり空いた。またとない破格の条件が提示され、エミネントは市の企業誘致第1号となった。しかし、住み慣れた大阪を離れてまで、見ず知らずの松浦に行きたいという作業者はいなかった。人は全員、地元で集めなければならなかった。

当然の成り行きとして、あらゆる期待が、眞弓さんをはじめとする松浦市出身の新入社員50名にかけられた。1969(昭和44)年の春。半年後には故郷に完成する新工場にもどることを前提として、すぐに東大阪工場へと派遣された。
男子は各部門の将来の管理者として、そして女子は縫いの研修が課せられた。時間はないに等しいから、徹底して専門分野に特化した短期集中研修であった。
眞弓さんは仕上げのプレスを担当した。たえまなく熱い蒸気が立ち込め、排風が思うにまかせないなか、一日中立ちっぱなしで作業をする。蒸気、蒸し、加圧、乾燥のそれぞれにかける秒数について、素材ごとの適性バランスを習得することが目的だった。仕事場には塩が盛られ、舐めながら作業をつづける。汗が噴き出て、昨日の制服にまたあたらしい塩模様が広がっていく。機械の修理法や調整法も学んだ。過酷ではあったが、若かったから、こんなものだろうと思っていた。慣れない大阪の地で、研修生たちはそれぞれ、これから担っていく分野の習熟に明け暮れた。

8月に工場は完成し、操業を開始した。
昨日までの研修生が、いきなり指導する側にまわることになった。もとより経験が浅いうえに、若い。作業をお願いする相手は、日々炭鉱で汗を流してきた気の荒い年上の女性たちだった。だれが上司か先輩かわからない混乱のなかで、新工場はスタートしていった。人の使い方、それぞれの心の内のこと、いい勉強になったが、当時はつらかった。
翌年から新卒者が入社してきた。
遠くに住む方には社員寮に入ってもらい、定時制の高校に通いながら働いてもらった。
高度成長が始まり、つくれば売れる時代に入っていく。
松浦工場の操業から5年後、1974(昭和49)年には、平戸に近い田平に新工場が完成した。これをもって長く母体となってきた東大阪工場は閉じられ、工場従事者はほぼ全員が九州出身者となった。松浦で4本、田平も2本から3本へとラインが増設され、最盛期には計7ラインがフル稼働していた。
日産7300本を誇り、工場の合理化が急務となった。

当時は、「きれいに、速く上げる」ことが優先された。自動機は均一な品質をもたらしてくれる。一方で高度成長もあって、人件費が急激に伸びていた。かならずしも人の手を借りずともいいところを、いかに機械に置き換えていくか。それだった。
ドイツ製のミシンは耐久性があり合理的で、能率よく仕事を進められた。が、なにしろ高価だった。20才前後で最初の渡欧を果たした。のちに人生の師ともなる当時の社長に付き従って、3回も4回もドイツに向かった。自分たちの製品パーツを抱え、直接メーカーを訪ね、出来上がりを確認しては貪欲に買い漁っていった。同時に、海外のさまざまな文化にも触れた。

スラックスづくりは、究極の立体美の追求である。
眞弓さんはとくに、腰からお尻にかけての微妙なふくらみを、生地の段階から美しく再現するコテ型に細心の注意を払ってきた。日本人の体型はここ数十年で大きく変化していた。加えて、タックの有無でもコテ型は変わる。そこが合っていないとシワが生じたり、あとの能率まで影響を受けるから、時間と労力とを惜しまなかった。一からオリジナルでつくり、さらに進化を重ねてきた腰プレス機は、まさしく松浦職人の探究心によるものだ。
もう一つの大きな仕事が、工場内におけるパーツの、流し方の改革であった。
高騰する人件費に見合う効率を見つけるべく、眞弓さんは思い悩んでいた。作業者の仕事は、「取る」「縫う」「置く」の繰り返しである。その前後は、利益を生まない。人が移動することなく、これらを1か所でできれば効率はぐんと上がる。人は本来の、縫うことに専念できる。
しかし、搬送システムの改革は巨額の投資を必要とした。眞弓さんは一番興味を引かれたスウェーデンのイートン社に向かった。同社のシステムを先駆的に採用していた国内の工場も訪ねた。運用の仕方を学んでスラックスへの活用を考え、何度もテストを繰り返した。裾をハンギングすれば大抵の工程をこなせることもわかった。もちろん人の能力には差があるから、バランサーと呼ばれた、どの部署でもこなせる応援部隊を用意した。試行錯誤ののちに、完成まで5年の歳月を費やした。

現在、64才。昨秋に会長を退き、より自由に工場内を歩ける相談役となった。
冒頭の「もの言わぬ ものがもの言う ものづくり」は、眞弓さんの信念である。それが大書され、工場の一番めだつ位置に掲げられている。
眞弓さんが残したものの数は多く、かつ多岐にわたる。いつのときも、現場を見つめつづける先に、回答があった。独創的なそれらは、もし彼がデスクにしがみついていたら、生まれなかったものばかりである。

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株式会社エミネントスラックス 松浦工場
長崎県松浦市志佐町浦免1676
TEL:0956-72-0326