2014MFUマイスター≪技術遺産≫認証 受賞者紹介①

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矢島久和 (フレックスジャパン株式会社 会長)

日本製を買ってください

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人生の大半と言っていい、じつに多くの時間を工場のなかで過ごしてきた。
矢島さんにとってそこは、いちばん心の浮きたつ場所でもあり、いまだにいちばん悩みぬく場所でもある。
その本社工場のラインに昨年から、その名も「日本製」というシャツが流れはじめた。なにより日本の技術と職場をこれ以上消さないがための試みであるが、背景には生きつづけるために工場の海外移転に走り、国内工場を疲弊させた一人としての悔恨がある。
もちろん、会社は大きくなった。すでに1000万枚を超えるシャツが海の向こうでつくられている。
一方で、かつて450人もの技術者で賑わい、1日8000枚ものシャツをつくっていた本社工場の一部は倉庫に置き換えられ、仲間は40数人にまで減った。
工場は、働く人を吸収する場である。変わりつづけなければ企業は存続しえないが、結果としてその人たちの職場を失くしてしまった。そんな現実を思い起こすたび、自分も含めた企業家がいくらかでも、自分の会社さえ儲かればいいとする考えを改められればいいと、そう思いはじめた。
幸い、日本でつくる必要性は増してきていた。オーダーのお客さまが増えているが、これは時間的にも海外では対応できない。ファッションの多様化で複雑なシャツも増えている。こちらも海外ではできない。多仕様、少量ロットの世界は、やはり国内工場で対応すべきものだからだ。
あえて「日本製」と銘打ったのは、だから品質がいいんだと声高に宣伝することではなく、考えに賛同していただけるお客さまが、割高と知りつつも国内製品を買ってくださることを願ってのこと。孫たちの時代にそれを残したい。そのための最初の一石になればいいと思った。

フレックスジャパンの源流は、江戸期に端を発する「加納屋」にある。
時代は下って、明治37年に発行された多色刷りの美しい引札、いまでいうチラシには「正紺染糸 紡績糸類 打綿真綿 カタン糸外品々」と大書されている。もともとは綿屋であり、糸屋だった。当時は、ふとんでさえ各家庭でつくっていたから、そのための綿や糸などを売っていた。ほかに、反物も扱っていた。家は永く、小売業だった。
ところが父の代になると学生服などの代理店として、いつのまにか卸売業になっていた。軍靴が鳴りひびく食糧難の時代であったから、商売をつづけながら、米作も畑作もやって日々を凌いでいた。そのうち戦争に突入して統制経済となり、自由な商売ができなくなった。
かなりの洋服地を卸していたからだろう、1943(昭和18)年に海軍監督工場に指定され、南方にいる兵隊の防暑衣としてカーキー色のシャツを加工して納入した。
戦後は自由経済にもどったが、品不足は変わらなかった。
つくりさえすれば飛ぶように売れるのに、すでに現金で払ってある原料が入ってこない。とことんやられて、従業員を大きく減らした。

敗戦から7年を経た1952(昭和27)年3月、矢島さんは総領息子であったから、自然な流れとして父が営む加納屋に入社した。大して疑問も持たずに入ったが、内実は何だって引き受ける、工賃だけで食いつなぐ下請け工場となっていた。材料もデザインも、すべては発注先の言いなりである。それでも多少の利益が出ればいいのだが、朝から晩まで働きつづけてもまったく採算に乗らない。みじめな工場そのものだった。その悔しさが、いつか、自身のばねになっていく。
下請け工場は、何でもやらなければ生きられない。下着、シャツ、日用品……スーツ以外はほとんどのものを手がけたが、なかでシャツだけが採算に合った。専業メーカーとしてやっていけないかと思いは膨らんだが、すぐにどうなるものでもない。
シャツだけをやりたい、と父に進言した。父は銀行で工面した現金を懐に東京の堀留へと出かけ、シャツ地を仕入れてきた。入社したばかりの矢島さんが、工場でそれを受けた。
24才だった。まだ独り身だったし、いざとなれば勤めに出てもいい。どうとでもなる、と腹を括った。シャツをつくるためのミシンやアイロンこそ揃っていたものの、すべて戦時中の旧式ばかり。当時は、大きいモーターで長いシャフトを回転させ、そこから1台1台のミシンが動力を取っており、これがなかなか思いどおりに動いてくれない。たっぷり油をくれてやろうが、ガタガタは容易に元へはもどらない。実態はひどいものだった。こうしてシャツ屋の第一歩がはじまった。

売り先である近在の繊維問屋の反応は、真っ二つに分かれた。昔の仲間から買えるかと拒絶するのと、メーカーになったのなら置いてやるよ、というものだった。すべて売れるわけではないから、下請けをつづけながら在庫を捌いていった。その年の秋になってようやく、ワイシャツの専門メーカーとして独り立ちできるようになった。
翌年に矢島さんの弟が入社する。弟は父に似て商売向きの男だった。彼が販売を強化し、自分が生産を一手に引き受ける構図ができあがった。
シャツは、売れた。安かったから、いくらでも買ってもらえた。翌1954(昭和29)年には、念願の初ブランドを商標登録した。「高原シャツ」だった。

昭和30年代は縫製工場の革命期となった。
日本は外貨が乏しかったが、それでも新しいミシンがどんどん外国から入ってきた。自動給油で高速回転、おまけに単独モーターである。性能もさることながら、シャフトにつなげる必要がなくなって、流れに沿って工場を自由にレイアウトできるようになった。そのうち2本針も入ってきて、3人がかりの仕事が1人でできるようにもなった。生産性はみるみる上がっていった。
父は商売人だった。機械を買う、つまり工場に金をかけると機嫌がわるくなった。
父にしてみれば、自分が販売するから稼げているのである。生産性を上げ、安くいい製品をつくることで、じつは工場が儲けているという視点がみじんもなかった。工場なんてものは金を使うだけのもの。父の頭のなかにあるのは、それだった。
しかし矢島さんは身体の底から、真実、モノづくりが好きだった。新しいミシンは、だからおもちゃを買ってもらった子どものように、うれしかった。
一方で意地も手伝って、30年代後半からは工場に出ながら各地へ販路の開拓にも出かけた。北海道、北陸、関東などで、思いのほか開拓できた。
工場の技術レベルが上がり、経営の規模も大きくなった。父は人を使うのが苦手だったから、やがて営業もふくめたすべてを自分で見るようになる。1年ほどの短期間だが、経理もやった。好きな工場のミシンの修理もやっていた。
つまり、縫製工場のすべてをやった。

事業が拡大し、かねての宿願であった、新工場の建設に踏み出した。
それまで屋代の町中にあった工場は、畑地などを買い増して大きくはなっていたが、敷地のわりに道が狭く、トラックが入れない。現在の本社工場の地が、たまたま牧場になっていた。工場としての立地にすぐれており、しかもその中ほどに500坪ほどだが、わが先祖伝来の土地があった。牧場の大規模化が進んでいたから、売りたい方と買いたいほうの気持がぴたりと符合した。
1966(昭和41)年、第1期工事が完成した。ビートルズが来日し、カラーテレビ、クーラー、カーが新三種の神器とされた、いざなぎ景気のはじまる年だ。
しかし昭和40年代に入ると、急速に人手不足の時代となった。人は新しい産業へと流れていく。縫製業のような労働集約産業に人は集まらず、死活問題として、どこの工場にも海外移転の機運が出てきた。
当時の海外といえば、韓国か台湾であった。ある商社が企画した見学会に参加することで、ここから技術指導や提携など、さまざまな取り組みが生まれていく。結果として、いまも海外では5カ国で8工場を展開している。

現在、85才。
振り返って、劇的といえるようなことはあまりなかった。むしろ自然に生きてきた。やれって言ってくれた人がいたから、時々でやってきた。やらせてもらえたおかげで、いろいろわかることがある。苦労はするが、過ぎてしまえば苦労したとの思いは消える。ありがたいことだ。

矢島さんのアイデアの泉は、涸れることがない。
根底にあるのは、うちはメーカーなんだ、という強い想い。シャツは飾りものじゃないから、つねに「着やすい」ことを意識している。シャツとはこういうもんだ、とする凝り固まった先入観はとうに捨てた。ただ一心に、いいモノ、よりいいモノへと向いている。
同社のこれまでの型紙は、すべて矢島さんのオリジナルだ。社員が着ているシャツのたるみを見て、ひらめくこともある。考えついたことがいいかどうかは、縫ってみなければわからない。が、自家工場があるから、すぐに実証できる。本社工場はその中心だ。それを小さくしてしまっていいのか。
目の前を、「日本製」のエンブレムを付けたシャツが流れていく。
肩書きは会長だが、工場のだれ一人として、そうは呼ばない。キャップ、である。
キャップ、すなわち代表選手は、しかし永遠に一選手でもある。

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フレックスジャパン株式会社
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